沖縄戦と鹿児島「知覧」特攻隊

昨日沖縄・鹿児島知覧を巡る千代田区平和ツアーから帰ってまいりました。

7/27、3日目の首里城、読谷村、シムクガマとチビチリガマ、嘉手納基地、

7/28、4日目最終日の鹿児島知覧特攻平和会館について、報告していなかったので、記憶メモ方々、見たママ、感じたままを記録しておきます。

順番が逆になってしまいましたが、

1)知覧と沖縄戦の地図と日程(館内は撮影禁止なので、ネットにあるものを代用)

2)知覧に捧げた児童館の子どもたちの千羽鶴

3)特攻隊に飛び立つ若者が手紙を書いたり仮眠をとった三角兵舎復元

4)常識では考えられないような沖縄本土への「艦砲射撃」

5)1945年4/1沖縄本土上陸の地図

6)シムクガマの1000人の村人がなぜ生き残ったかを記す碑文

(一方隣接のチビチリガマは、その多くが村民自らの手で集団自決したのはなぜか?)

忘れてはならない、沖縄の集団死 

1945年3月26日、アメリカ軍、慶良間諸島上陸集団死発生、4月1日読谷村の海岸より沖縄本島へアメリカ軍無血上陸、

私たちが読谷村の職員に連れて行っていただいた2つのガマは、当時の村民に対する皇民化教育の凄まじさを物語っている。捕虜になって囚われるより死を選べと洗脳されていた村民は、ガマにやって来て投降を呼びかける米軍を信用せず、チビチリガマではその多くが集団死、シムクマガマでは、ハワイ帰りの英語ができ、国際法を知る2人が住民を説得してほぼ全員が捕虜になって生き延びたという。いずれも上陸の日と翌日の出来事。

チビチリガマは、遺族の方々の意向で、ガマの中に入ることは許されない。赤ちゃんから年寄りまで、みな互いに殺しあったむごすぎるしの現場に、語る言葉などない。空気が怒りに満ちているような気配をただただ感じる。

シムクガマの途方も無い真っ暗な奥行きの上に、米軍機が飛び去る轟音がゴウゴウと地鳴りのように響いていた。

まさに、ここでは戦争は終わっていない。

知覧特攻と沖縄南部戦線は 

同時期のたたかいだった❗️

3日間沖縄の地上から見た死屍累々の地上線を、4日目の鹿児島知覧においては、海上から見ることになったのだ。
1300〜1500まるで沖縄の海がアメリカ軍の艦船で真っ黒だったという。
その無数の艦砲射撃の先に、沖縄本土を南部へ南部へと追い詰められ、殺戮される島民と軍人とがあり、一方で、17才18才という平和使節団同行の参加者と同じような年の子どもたちが、死を覚悟してここを飛び立ち南の海の砲弾に散ったという事実を突きつけられた。

散る桜 残る桜も 散る桜🌸

 
資料館の方からの力強く説得力のある講話、覚悟してここから飛び立った若者の自筆の日記や手紙、にこやかで屈託のない笑顔の写真、彼らのお世話をした女学生や旅館の女性(鳥浜トメさん)の証言などを重ね合わせると、72年前の彼らの声が聞こえてくるようだった。

共通することは

 
このようなことが2度とあってはならない、ということを、何度も聞いた。
「戦争というものはしてはならないんだ。これからは、平和な日本に…」、と言って16才の下平さんは鳥浜トメさんに別れを告げたという。極楽に行く人はとても優しいお顔をしていると、トメさんは述べている。
このような歴史と死者によって、いまの平和がある。
本当は死ぬのは怖い、好きなことや夢、好きな人、家族とともに過ごす事も出来ずにもう死ななければならない、肩を震わせて泣いているものもいる、それでも、早く行って軍艦に痛手を与えて、残る人たちを信じて自分たちは逝った。
2017年7月29日
かしこい、ひたむきな中高校生と
沖縄戦を巡る旅4日間の小枝メモひとまず終わり!!
小枝すみ子
カテゴリー: Uncategorized パーマリンク